波打ち際の続き話

友達が、

「最近、夜中にひとりで海辺を歩いてるんだよね」

と言いました。

私は最初、

「危ないからやめたほうがいいんじゃない?」

と言いました。

すると友達は、

「だから今日は二人だよ」

と、なぜか解決した顔をしました。

解決していません。

でも、その顔が妙に楽しそうだったので、私は結局ついていくことにしました。

深夜のバスは、思っていたよりずっと空いていました。

というか、私たち以外に乗客は誰もいませんでした。

車内灯は少しだけ眠そうで、運転手さんも静かで、バスそのものが「本日は夢方面へ運行しております」という顔をしていました。

窓の外では街灯がぽつぽつ流れていきます。

コンビニ。

マンション。

信号機。

閉まったパン屋。

夜の街は昼間より少しだけ本音に近い気がしました。

友達は窓の外を見ながら、

「昼間の海も好きだけど、夜の海は話ができる感じがする」

と言いました。

私は、

「海に相談してるの?」

と聞きました。

すると、

「いや、海の話を聞いてる」

と言いました。

たぶん意味は分かりません。

でも、その頃には私も少し眠くなっていて、意味の境界線がだいぶ曖昧になっていました。

人気のないバス停で降りました。

降車ボタンの音だけが妙に元気でした。

ピンポーン。

まるで、

「ここから先は自己責任でお楽しみください」

と言われたみたいでした。

バスが走り去ると、急に静かになりました。

静かというより、世界から説明文が消えた感じでした。

道路を少し歩いて、砂浜へ出ました。

その瞬間、

思わず足が止まりました。

海が光っていたのです。

空には大きな月。

波の表面には月明かり。

そして水際には夜光虫。

寄せては返す波の先端が、青白くきらりと光っていました。

まるで海が、自分の存在を忘れないように小さなサインを出し続けているみたいでした。

友達の顔も月明かりで見えました。

昼間の顔でもなく、部屋の照明の顔でもなく、少しだけ物語の登場人物みたいな顔でした。

たぶん私も同じだったと思います。

人間は月に照らされると、少しだけフィクションになります。

私たちは波打ち際を歩き始めました。

話した内容はほとんど覚えていません。

仕事のこと。

昔の失敗のこと。

好きだった本のこと。

小学生の頃に信じていた変な噂のこと。

最近見た夢のこと。

人生の話もしたし、アイスの話もしました。

重要な話もしたし、どうでもいい話もしました。

でも不思議なことに、その夜は全部同じ重さでした。

たぶん海の前では、

「人生の悩み」

「好きなおにぎりの具」

は案外近い場所に置かれているのだと思います。

歩き続けるうちに、靴の中に少し砂が入りました。

波は相変わらず光っていました。

夜光虫は、誰にも褒められなくても光ります。

それは少し格好いいなと思いました。

誰も見ていない場所で光るものには、独特の美しさがあります。

しばらくして疲れたので、私たちは砂浜に座りました。

砂はひんやりしていました。

波の音は規則正しく続いていました。

友達は何も言わず海を見ていました。

私も何も言いませんでした。

会話が途切れたのではなくて、静けさが会話に参加してきた感じでした。

沈黙のあいだ、海は波の言葉を話していました。

月は月の考えごとを光に変えていました。

星たちも遠くで何か相談しているようでした。

もちろん、本当に何を言っていたのかは分かりません。

でも私たちは、二人ともずっと耳を傾けていました。

それは不思議なくらい平和な会話でした。

誰も正解を言わず、

誰も相手を説得せず、

ただ世界のほうが静かに話していて、

私たちはそれを聞いていました。

遠くの水平線は真っ暗でした。

でも、ずっと見ていると、その黒の中に少しずつ色が混ざり始めました。

最初は気のせいかと思いました。

夜はときどき、朝の予告編をこっそり流します。

濃い紺色が少し薄くなって、

黒と青の境界がほどけて、

空の端に、ほんの少しだけオレンジ色が滲みました。

気づけば鳥の声が聞こえていました。

波は相変わらず同じリズムでした。

でも世界のほうが少しずつ朝へ移動していました。

夜光虫の光は見えなくなっていました。

消えたわけではありません。

朝が来たので、目立たなくなっただけです。

希望とか自信とかも、案外そんなものかもしれません。

なくなるのではなくて、

見えなくなるだけの日がある。

そしてまた暗い場所へ行けば、

ちゃんとそこにいる。

朝日が海の向こうから顔を出しました。

海面が金色になりました。

さっきまで月のものだった光が、今度は太陽のものになりました。

夜勤交代です。

空は少しずつ青くなっていきました。

友達は伸びをして立ち上がりました。

そして、

「続きはまた今度にしよう」

と言いました。

私は、

「続き?」

と聞き返しました。

友達は海のほうを見ながら笑いました。

その顔を見て、ようやく分かりました。

あの沈黙の時間、

海や月や星が話していたことを、

友達もちゃんと聞いていたのです。

私だけが勝手にそう感じていたわけではありませんでした。

だから私は、

「そうだね」

とだけ答えました。

たぶん私たちは、

会話の続きを約束したのではなく、

あの夜の続きを約束したのだと思います。

何かが解決したわけではありません。

人生も相変わらずでした。

仕事もあるし、悩みもあるし、洗濯物もたぶん溜まっています。

でも胸の中の何かが、少しだけ広くなっていました。

たぶん夜の海が、窮屈だった気持ちを預かってくれたのだと思います。

帰り道、バス停へ向かいながら友達が言いました。

「また来よう」

私は、

「今度は昼間で」

と言いました。

すると友達は笑って、

「それじゃ普通じゃん」

と言いました。

たしかにそうでした。

でも、普通じゃない夜をひとつ持っていると、普通の朝は少しだけ特別になります。

ポケットの中には砂が少し残っていました。

海辺では、思い出が砂のふりをして紛れ込むことがあるのです。

昨夜たしかに、私たちは世界の端っこまで散歩していたのでした。


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