余った時間の河川敷
夕方の河川敷には、名前のない風が吹いていました。
それは涼しいというより、世界が少しだけ遠慮しているような風でした。昼の熱はもう帰り支度を始めていて、空の端では、誰かが薄い青にオレンジを一滴だけこぼしていました。
私はそこを歩いていました。
どこから来たのかも、どこへ帰るのかも、うまく言えないまま。
世間は、ゆっくりと一日の服を脱いでいました。遠くには、終わった人たちの気配がありました。何かを済ませた足音。誰かと交わされた短い言葉。閉じられていく扉。灯り始める窓。
それらは全部、やわらかい川の向こう側にありました。
私は同じ場所を歩いているはずなのに、なぜか一枚だけ透明な膜の外にいるようでした。声は聞こえるのに、意味までは届かない。灯りは見えるのに、温度までは来ない。世界はちゃんと夕方をしているのに、私だけ昼にも夜にもなれず、余った時間の中に立っていました。
草が揺れていました。
さらさら、というより、誰かが小さな紙をめくっている音でした。そこにはたぶん、今日という日の報告書が書かれていて、私の欄だけ空白なのだと思いました。
空白は、ときどき重いです。
石より重く、雲より不確かで、ポケットに入れて歩くと心の内側が少し沈みます。
けれど川は、そんなことを知っているのか知らないのか、ただ流れていました。急がず、止まらず、自分が川であることを大げさに説明せずに。
私はそれが少しうらやましくなりました。
世界には、役目を疑わないものがあります。風。川。夕暮れ。影。遠くの灯り。誰かの帰り道。
それに比べて私は、自分の輪郭をときどき見失います。ここにいていいのか、どこかへ行くべきなのか、もう遅いのか、まだ早いのか。そういう問いが、胸の中で小さな魚みたいに跳ねていました。
すると、川面に夕焼けがほどけて、金色の細い糸になりました。
その糸は、こちら岸と向こう岸をつなぐでもなく、ただ水の上で揺れていました。役に立たない橋。渡れない道。でも、見ていると少しだけ息がしやすくなる光。
たぶん、そういうものも必要です。
役に立たないけれど、消えないもの。
説明できないけれど、そばにあるもの。
明日を変えないけれど、今夜を少しだけ薄めてくれるもの。
風がまた吹きました。
今度は、どこかから「大丈夫」と言いかけて、途中でやめたような風でした。無責任に励まさないところが、夕方のいいところです。夕方は、答えを持っていません。ただ、明るさを少しずつ減らしながら、暗さに目を慣らしてくれます。
私は歩き続けました。
置いていかれているのかもしれない。
休んでいるだけなのかもしれない。
見えない場所で、何かがゆっくり育っているのかもしれない。
どれも本当で、どれもまだ分かりません。
けれど、足元の影が少しずつ長くなって、やがて私より先を歩き始めました。影だけは、迷わず前に伸びていきました。
それを見て、少し笑いました。
今日の私には、先に歩いてくれるものが必要だったのかもしれません。
さて、川の向こうで灯りがまたひとつ増えました。
世界はまだ、私を呼んではくれません。
でも、完全に閉め出してもいないようでした。
それでも、河川敷の夜は不思議です。
ちゃんと前に進めている人と、立ち止まってしまった人を、あまり区別しません。
風は同じように吹くし、灯りは同じように川に揺れます。
だからたぶん、今の私は「遅れている」のではなく、まだ途中の形をしているだけなのだと思います。
うまく言葉にならない時間にも、名前のついていない成長があります。種が土の中にいる時間みたいに、外からは何も起きていないように見えても、見えない場所では静かに輪郭が変わっているのかもしれません。
遠くで、電車がもう一度通りました。
窓の光はさっきより少しだけやわらかく見えました。
帰る場所がある人たちの灯り。
これから探しにいく人の灯り。
まだ途中にいる人の灯り。
たぶん全部、同じ夜の中にあります。
私はポケットに手を入れたまま、少しだけ深く息を吸いました。
川の匂いと、草の匂いと、冷え始めた空気。
そのどれもが、「今日はここまでで大丈夫ですよ」と静かに言っている気がしました。
なので、とりあえず明日も生きてみます。
それくらいの約束なら、今の自分にもできそうでした。
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