持ち帰り自由の星くず
夜の砂浜には、「考えすぎた人専用の静けさ」が落ちています。駅から海まで歩く途中、自動販売機の明かりがぽつんぽつんと浮かんでいて、まるで夜が自分で自分を励ましているみたいでした。コンビニで買ったラムネは「本日の感情をゆるやかに炭酸化します」と書いてあって、そんな機能が本当にあるなら助かるなと思いながら、私は海へ向かいました。
砂浜には誰もいませんでした。波の音だけが、ずっと誰かの話を聞いているみたいに続いていました。靴を脱いで砂に足を埋めると、昼間に太陽をためこんでいた砂がまだ少しだけ温かくて、「おつかれさま」が足の裏から入ってくる感じがしました。どうやら今夜は、「急がなくていい日」らしいです。
海は真っ暗でした。でも、波が寄せるたび、水際が青く光りました。夜光虫です。まるで海が、内緒話をするたびに照れて光っているみたいでした。波の先っぽがきらきらして、そのたびに「生きてるって、案外こういうことかもな」と思いました。大きな意味じゃなくて、ただ、暗い場所でも少し光ること。
私は砂浜に座って、しばらく海を見ていました。しばらく、のつもりだったのですが、気づけば時間がゆっくり壊れていて、時計の針が「今日はもう働きません」とストライキを始めていました。たぶん深夜二時くらいから、世界はだいたい夢と現実のあいだになります。遠くの船の灯りは、夜空に迷い込んだ星みたいでした。
隣には誰もいなかったけれど、ときどき波が話しかけてきました。
「最近どうですか」
とか、
「ちゃんと休めてますか」
とか、
「自分を置いていってませんか」
とか。
海は意外と世話焼きです。
途中で、小さなカニが横歩きで近づいてきて、私の近くにちょこんと止まりました。月明かりの中で見ると、まるで砂浜の受付係みたいでした。カニは少しだけこちらを見て、それからまた静かに歩いていきました。たぶん「泣きたい夜は海を使って大丈夫です」という確認に来たのだと思います。海辺には、そういう係がいます。
ラムネを飲み終わるころには、空の黒が少しずつ薄くなっていました。夜と朝の境目は、誰かが丁寧に水で溶かした絵の具みたいです。青とも灰色とも言えない色の中で、波だけが先に朝を知っていました。夜光虫の光はだんだん見えなくなっていったけれど、不思議と「消えた」という感じはしませんでした。見えなくなっただけで、たぶんまだそこにいます。元気とか、希望とか、自信とかも、案外そういうものなのかもしれません。
朝焼けが海に落ち始めたころ、遠くでカモメが鳴きました。その声は、「そろそろ帰っても大丈夫ですよ」と言っているみたいでした。私は立ち上がって、砂を払って、少し冷えた靴を履きました。昨夜より何かが解決したわけではありません。でも、胸の中にあったぐちゃぐちゃしたものが、波で少しだけ丸くなっていました。
人はたぶん、「完璧に元気になる」のではなくて、「また朝を見てもいいと思える」ところまで戻ってくる生き物なんだと思います。
帰り道、自動販売機の横を通ると、朝日に照らされた缶コーヒーが並んでいました。その一番下の段に、「本日のおすすめ:なんとかなる味」と書かれている気がしました。気のせいかもしれません。でも、朝方の世界は、ときどき気のせいに優しいです。
さて、ポケットの中には砂が少しだけ残っていました。たぶん夜の海からの、持ち帰り自由の星くずです。
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