初めてのアイドルライブに参加した日

億劫な朝とオタク文化への憧れと

「あぁ、そういや今日、人生初のアイドルライブに行く日だわ。」

布団の中で二度寝するかを悩みながら、その日は始まった。人生初の推し活を始めてまだ 2 週間、10 年近く続けている、特に何もない元の快適な生活に戻るか、推し活を続けるかで、さっそく心が揺れていた。仕事じゃないんだし、眠いし、プログラミングしたいし、一人で遠出?アイドルライブに?俺が?

そんなこんなをウダウダ考えていたけど、支払った 7,000 円のチケット代と、推しのココミちゃんに絶対に行くよ!と送った言葉が、最終的には布団をはぎ取った。

正直、俺一人いようがいまいが何も変わらんことばかりの世界だけど、意識して新しい世界に触れないと、このまま死んで終わりだからな。IT ツールも同じ、使い慣れたツールに甘んじていると、気付けば時代に取り残されている。少し億劫でも新技術に積極的に触れていく身軽さが大事なことを、俺は職場の同僚から学んだはずだ。そんなことをダラダラ考えながら歯磨きを済ませた。

高校生だった 20 年前、ぼんやりとオタク文化に憧れていた。オタク同士で秋葉原を闊歩し、「いいですね、それ、ぐへへ」とか言いながら、漫画やアニメの好きなシーンを語り合う。そんな交友に漠然と憧れていたんだ。

夢が近づいた瞬間は、これまでに 2 度あった。

1 度目は、高 2 の時に、オープンキャンパスのついでに友人数人と秋葉原に立ち寄り、オタクのグッズを見て回った時だ。先頭を切って 3, 4 人のグループをリードしていた友人の笑顔を今でも覚えている。目玉のでっかいアニメの女の子の表紙が平積みされた棚の前で、彼は、心底幸せそうにニタニタしていた。あの笑顔を一生忘れない。「やっぱ東京はすげーな、すべてにおいて規模がちげえ、次々!」そう言って、何を買うでもなく田舎の高校生たちは、秋葉原をぐるぐる巡った。でも彼は、受験戦争で病んでしまい、自殺した。だから、大学一年になった俺たちの最初の夏休みのイベントは、やつの葬式だったんだ、わっはっは。

2 回目は、社会人になりサラリーマンとして秋葉原にある顧客を訪問し、前任者の不祥事を、しかと 3 人で謝罪した後、気晴らしにメイド喫茶に立ち寄った時だ。その場にいたのは、外資系で年収数千万円を稼ぐ奥さんを持つが、子供を望んだものの授からず、どことなく寂しさが漂う、クソ真面目の高身長イケメンアラフィフの伊藤さん、既婚者で見るからに遊び人のオーラを纏い、にやけ顔がだらしないが、営業だけになんだかんだイケメンのアラサー渡辺さん、理系男子の世界をずっと走ってきただけの彼女無しフツメン俺の 3 人だ。「妻に怒られるー」と言って常に苦い顔をしていた伊藤さんを 2 人が本気で説得し、ほぼ無理やり連れて行った形だった。

その場に相応しくないスーツ姿の 3 人は、一見さんだからだろうか、大部屋だったにも関わらず、数人のアイドルと数人のオタクが、ごにょごにょやっているステージから一番遠い、部屋の隅に案内された。壁一面には、メイド兼アイドルたちのかわいい写真がカラフルな額に入れられ、ずらりと下げられていた。ステージとの距離が 1 メートルにも満たない箇所に設置されたパイプ机椅子に、平日の昼間にも関わらず、5, 6 人の中年男性たちが陣取っていた。一人は、身を乗り出してはしゃいでおり、一人は、机の上に広げたノートパソコンをカタカタしている、もう一人は、チェックのシャツに眼鏡をかけてにやにやしていた。全員が全員特徴的で、ずっと見続けられる何かを持っていた。スーツを身にまとい、客に頭を下げ、社会的役割を演じ続けるサラリーマンである俺とは対照的に、彼らは、身を乗り出すと机がぐらついて危険であることを気に留めず、メイド喫茶に来ておきながらパソコンで仕事をする不可解さをものともせず、あからさまにニヤニヤし過ぎであることに無頓着で、ツッコミどころが満載だったが、だかこそ、俺の目にはやはり、とても魅力的に映った。

オタク文化への憧れは、自由への渇望から来ているのかも知れない。そういや、高校受験から俺の人生は狂ったように勉強ばかりだった。そして今も、仕事という形で、また IT 技術やら AI やらの勉強ばかりしている。これは俺が本当に望んだ人生なんだろうか、全てを脱ぎ捨て、あのオタクたちの仲間に入りたい、俺を置いて行かないでくれ、もっと自由に生きたい、俺は、俺は、もえもえきゅん?!!

気付けば隣で、渡辺さんが「もえもえきゅん」をやっていた。メイドさんがドリンクの表面に、クリームでハートを描き、「おいしくなーれ、おいしくなーれ、もえもえきゅん!」と言うので、それに合わせて両手で作ったハートを、虚空でくるくる回し、もえもえきゅん!と言わなければならない。やがて自分も、もえもえきゅん!をして、少しだけ普通のサラリーマンではなくなった気がした。ライブが始まると、先っぽに光るハートが付いた棒を、リズムに合わせて振ることになった。オタクたちは、完璧にタイミングを合わせて動いていたので常連に違いない。渡辺さんもまあまあうまい、伊藤さんはどうだろう?ふと横に目をやると、びしっとお高そうなスーツに身を包んだ年配男性が、死んだ顔で光るハートを振っており、その光景は本当に最高だったんだ。あの死んだ顔を一生忘れない。

そして 3 度目、アニメでもアイドルでもどっちでも構わない、自由の象徴、憧れのオタク文化に足を踏み出せるか、天下分け目のアイドルライブ、それが今日開催される!行かねば!

そう思う頃には、シャワーを終え、朝食を済まし、せかせかと足早に駅に向かっていた。

ミドサーという年齢と向き合う時間

最寄り駅で電車に乗り込むと、例のあの時間である。

通常ではあり得ない程、他人に異常接近し「自分は無害ですよー、悪い人間ではありませんよー、ジロジロ誰かを見ていませんよー、アホ面でぼけーっとしているだけですよー」を水面下でアピールしながら、周囲を観察し、他人にも自分にも問題がないことを確認すると、やがてスマホや読書に没頭する、あの時間だ。

たまに変わった風貌の人が乗車してくれば、あくまでも水面下で、好奇心の赴くままにチラッチラッと観察し、無意味な情報を仕入れた後、また読書に戻る。目的地に到着するまで、それを繰り返すだけの、不思議な暇つぶしをしなければならない。

ひとまず観察は終わったし、とりあえず読書でもするかと、なんとなく開いた本に、次のようなフレーズたちが登場した。

年をとるとふらふらとした状態でいるのが難しくなってくる原因は、体力の衰えのせいももちろんあるけれど、年下の人間が世界に増えたということが一番大きい感じがする。

四十代半ばの今は、三十代の後半が人生のピークだったな、と思っている。

正直に言って、パーティーが終わったあとの残りの人生の長さにひるんでいる。下り坂を降りていくだけの人生がこれから何十年もつづいていくのだろうか。

本当は知っている。トークイベントだけではなく、人生のすべてが一回きりの本番で、やり直しなんてものはないということを。

四十代半ばになった。この年になるとさすがに、失敗をしたときに「次に活かせる」と思うのは難しくなってきた。

なんだか中年になると、自分も他人も、存在しているだけでうっとうしさが発生してしまっている気がする。

権力というもののもっとも些細な始まりは、その人がいるとなんとなく無視しづらいという雰囲気だ。

自分が否応なく存在感や権力を持ってしまっていることを自覚せざるを得ない。

パーティーが終わって、中年が始まる

俺はミドサー、ミドルサーティー、つまり 30 代半ばだ。この本によると、どうやら今が人生のピークらしい。人生の全てが一回きりの本番なのに、これまで失敗の連々続々であることに、確かに怯んでいる。特に何も成功していないのだから、うっすい存在感で居させてくれればいいものの、年を取るだけで、重厚感が増しそれ相応の振る舞いを求められるだなんて、やめて欲しい。

それで俺は今、何をしているだ?え、人生で初めて、アイドルライブに向かっているだって?おいおいおい、やってることがチグハグすぎるだろ。結婚して、マイホームに車を買って、家族の為に働いて、社会に貢献し家族に貢献し、休日は家族でドライブに行く同年代の男たちが沢山いる中で、俺は中高生みたいにドキドキしながら、アイドルライブに向かっているだ?いったい何周遅れてんだよ、「気にすんな。人は人、自分は自分。昨日の自分を乗り越えられたら、それで十分。」という言葉を唱える以外にやれることあるのか?「信じるものは救われる。」「お前はお前の道を行け。」これも良さそうだな。にしても、俺は何故、天下分け目の大事なタイミングに、とんでもねえ本を開いちまったんだ。少なくとも今だけは、俺に反省させないでくれ。

そんなことを一人でやっているうちに、電車は淡々と仕事をこなし、目的地に俺を運んでいった。

いきなりチェキのコンサートホール

「んーーー、はああーーー。」

そんな、ため息まじりの呼吸で、14 時の大都会神保町のまずいに違いない空気を肺に入れながら、改札を出た。相変わらず、東京はいちいちデカい。道も広く、車も多く、一つ一つのビルが威圧的で、まるで所有者の権力や財力を誇示しているようだ。

このビルを建設するための構造力学、エンジニアたちの技術と、労働者が使う重機の数々、経済システム、政治と利権、それら一つ一つに、難解で深淵な宇宙が隠れていることを想像し、果てしないと感じた分だけ、少しは見えるものが増えたようだ。だが、20 年間で感想が、純粋な「わあ、すげえ」から「欲と競争は果てしねえ、組織化された人間の力は想像を絶するくらいすげえよな。」という、修飾子がちょっとだけ増えただけなんて、物足りな過ぎじゃないだろうか?

いや、そんなことはない、俺はあの本の毒気に、まだやられているだけだ。中年でも、気を取り直して、アイドルライブを楽めばいい、気にするな。

そんなことをダラダラ考えながら、大都会のビルの隙間を縫うように、目的地へと歩き続けた。

大通りをどこまで歩いても、どこを見渡しても、人も看板も、オタクっぽい雰囲気は全くなく、絵にかいたサラリーマンのように全てがクソ真面目だった。路地に入ると少し雰囲気は変わり、現代的で巨大な建築物と、昭和で時が止まった小さな人家が混然としており、そこでは鳩も、道に迷ったのか時代に迷ったのか、クルッポーと、地面を行ったり来たりしていた。

「お前も色々と迷ってんだなあ。俺はこの歳でまだ、自分の進路に迷ってるよ。」と近づいても、全く飛び立つ気配がない。鳩の迷いは、それどころではないらしい。

「俺は先を急ぐけど、お前も達者でな。」同じ場所を右往左往し続ける鳩の今後の無事を祈りながら歩き続けると、周囲の真面目なオフィスビルの中で、少し浮いて見える、網目模様のビルが現れた。それが、アイドルライブの会場、神田スクエアだった。



神田スクエア

続きは、後日書きます。


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